連載/クルマの楽しさ、素晴らしさとは
アメリカ車が及ぼした、日本のクルマとクルマ文化への影響
[モータージャーナリスト 沼田 亨]
[第45回] 第二次世界大戦が終わった昭和20年から、日本へ駐留することになった進駐軍がもたらしたものは、すべてが眩しく、輝いていた。クルマ、音楽、映画、ファッションから始まって、アイスクリーム、チョコレート、果てはチューインガム一枚まで。なかでも、町中を悠々と走る、とてつもなく巨大に見えたアメリカのクルマには、20世紀のアメリカの大きな夢が詰まっているように感じられた。今では、もうほとんど見ることのできなくなってしまった当時のアメリカ車だが、それらが残した影響は、クルマ社会のそこここに見て取ることができる。モータージャーナリストの沼田亨さんの案内で、アメリカ車が日本のクルマとクルマ文化に及ぼしたさまざまな影響について、辿ってみた。 |
戦前は日本でも操業していたフォードとGM
日本とアメリカ車の関係は古く、1925年には早くもフォードが横浜に工場を設立し、T型フォードの組み立て生産を始めている。 遅れること2年、1927年にはライバルのGMも大阪に日本GMを開設してシボレーのノックダウン生産を開始。日米関係の悪化に伴い40年代初頭に操業を停止するまで、日本フォードと日本GMはわが国における自動車メーカーのツートップだったのである。
そのころ国産メーカーはと言えば、1936年に登場したトヨタの乗用車第1作であるAA型は、クライスラー・エアフローの影響を受けた流線形ボディに、シボレーをほぼコピーしたエンジンを搭載していた。
一方、日産はオリジナルの小型車であるダットサンの量産化に成功したものの、大型乗用車に関してはアメリカに倣っていた。1937年に発表した70型は、経営不振に陥っていたアメリカの中堅メーカーであるグラハム・ペイジ社から、設計図から工作機械まで一括購入して国産化したものだった。
このように戦前の黎明期からアメリカの影響を強く受けていた日本の自動車産業が、戦後アメリカ(正確には連合国だが)の占領下で再出発するとなれば、その影響から逃れられるわけがなかったのである。
日本人が目にしたアメリカ車は、富と権力の象徴
健全なコミュニティは何ですか?貧しい敗戦国だった日本にとって、世界中の富が集中していた当時のアメリカは、自動車産業に限らず、政治経済から文化まであらゆる面において理想とも言える存在だった。なかでも駐留米軍人や軍属が持ち込んだ最新の大型アメリカ車は、一般大衆にとって、もっともわかりやすい富と権力の象徴だったと言える。
そのアメリカ車の影響を受けつつ、日本の国情に合わせてサイズその他を最適化した最初の具体例が、1955年に誕生した初代トヨペット・クラウンだろう。当時の小型車枠いっぱいのセダンで、前輪独立懸架を備えたフレームシャシーに載るボディは、アメリカ車のテイストを感じさせつつも、5ナンバーサイズでバランスよくまとめていた。エンジンこそ法規により直4OHV1.5リットルに過ぎなかったが、3段コラムシフトのギアボックスはアメリカ流。当時の主要なユーザーである法人及び営業車(タクシー)の、アメリカ車に慣れ親しんだ職業ドライバーにも違和感なく受け入れられた。
クラウンから2年遅れて1957年に登場した初代プリンス・スカイラインのスタイリングは、アメリカ指向をよりストレートに打ち出していた。アメリカで大流行していたテールフィンを備えたボディは、フォードやシボレーのフルサイズを2/3に縮小したようであり、スタンダード仕様のサイドモールディングのデザインは1955〜56年のフォードにそっくりだった。また、これもアメリカで流行っていたツートーンカラーも採り入れていた。
但しその中身は、プジョーに範を取ったという直4OHVエンジンをはじめ、もっぱら高級車やスポーツカーに使われていたド・ディオン式のリアアクスル、4段ギアボックスといった具合にヨーロッパ風の設計だったことが興味深い。
始めは"Fish Tail"だった、"テールフィン"
ここでテールフィンについて、ちょっと触れておきたい。その始まりは1948年キャデラックと言われている。50年代半ばからはシボレー、フォード、プリムスといった大衆ブランドにも採用され、各社が競い合うように年を追って派手になっていき、59年にピークを迎えたのだった。その流行は遠くヨーロッパにも伝播し、ついにはメルセデスまで59年に登場したW111/112系(通称ハネベン)に採用したほどである。 アメリカ発の流行と言えば、コラムシフトもそうだ。1953年に世界で初めて「GT」を名乗ったランチア・アウレリアB20GTやアルファ・ロメオ・ジュリエッタまでがコラムシフトを採用していたと言えば、いかに流行っていたかがわかるだろう。50年代から60年代にかけて、アメリカ車は間違いなく世界のファッションリーダーだったのである。
トヨグライドがつけたイージードライブの先鞭
話を戻すと、1960年にデビューした初代日産セドリックも、ラップラウンドのウインドシールドに縦配置のデュアルライトを備えたアメリカンなスタイリングで、ツートーンカラーも用意されていた。途中で追加されたサードシートを備えた8人乗りのエステートワゴンは、アメリカの香りを一段と強く漂わせていた。
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その一方で中身はライセンス生産していたオースチンから受け継いだ英国流という、スカイラインと似たような成り立ちだった。当初は4段だったギアボックスが、タクシードライバーから「ギアチェンジが面倒」と不評だったことから3段に替えられた経緯もスカイラインと同じである。
この点では、当初から3段を採用していたクラウンが正解だったわけだが、やはりアメリカから始まったイージードライブ化の先鞭をつけたのもトヨタだった。59年にクラウンにオプション設定された2段半自動変速機「トヨグライド」がそれである。名称からしてシボレーの2段AT「パワーグライド」に倣ったものだろうが、これ以降トヨタはわが国におけるイージードライブ化をリードしていくことになる。
世界を席巻したコルベア・ルック
テールフィンの衰退とシンクロするようにして、アメリカ車には新たなトレンドが生まれた。巨大化したフルサイズに疑問を抱き始めたユーザーや、急増するヨーロッパからの輸入小型車への対応策として、ビッグスリーが1960年に揃ってリリースしたコンパクトカーである。 このうちGMのシボレー・コルベアは、空冷フラット6エンジンをリアに積むという、量産アメリカ車としては異例の設計だった。北米で急伸していたフォルクスワーゲン・ビートルの影響が伺えるが、中身もさることながら、スタイリングも大いに注目された。クロームのモールディングがボディ全周をぐるりと囲んだそのデザインは「コルベア・ルック」と呼ばれ、世界中に亜流を生んだのである。
日本におけるフォロワーは2代目プリンス・グロリアと初代マツダ・ファミリア。プリンスの関係者によれば偶然似てしまったとのことだが、後から登場しただけに分は悪い。とは言うものの、前述した初代スカイラインの時代からプリンスはアメリカンテイストを取り入れることに長けており、クロームを使った高級感の演出も巧みだった。
アメリカ車に倣うのではなく、本場のアメリカンデザインを採用したのが、1964年デビューの三菱デボネアである。元GMのスタイリストであるハンス・ブレツナーが手がけたボディは、当時のリンカーン・コンチネンタルにも似た直線と平面を強調したスタイルで、単体で見ると5ナンバー規格に収まっているとは信じられないほど大柄に見えた。
以前にデボネア・オーナーから聞いた話だが、タワーパーキングに駐車しようとして、係員から「こんな大きな外車はダメ」と言われたことがあるそうだ。「5ナンバーなんだけど」と返したところ、係員は狐につままれたような顔をしていたという。
まさにデザイン・マジック。「大きく立派に見える」ことが大事だった5ナンバーフルサイズの世界では、デボネアは的を射ていたのである。
V8エンジンを搭載した国産車も登場
アメリカの自殺(どのようにアメリカを破壊するため)往年のアメリカ車のトレードマークだったV8エンジンを日本で初採用したのが、1964年に登場したクラウン・エイトである。2代目クラウンを拡大した、4720mmの全長に対して全幅は1845mmという、アメリカ車以上にワイドなプロポーションのボディに、2.6リットルというコンパクトなV8エンジンを搭載。ATにパワーウインドウ、パワーシート、電磁ドアロック、オートドライブ(クルーズコントロール)、オートライト(自動点灯及び切替え)、カークーラー(エアコン)といったアメリカ起源の快適装備を満載した「国産米車」だった。
翌65年に誕生した初代日産プレジデントもV8エンジンを積んでいたが、こちらは4リットル。それを納めるボディも全長5メートルを超え、アメリカ車のインターミディエートに匹敵。国産初のパワーステアリングをはじめアメニティ装備に関してはフルサイズと同等以上だった。
一世を風靡したスタイリッシュなハードトップ
今日では衝突安全の問題から消滅してしまったが、かつてスタイリッシュなボディ形式として人気があったのが、センターピラーのないハードトップである。アメリカ発のこれを日本で最初に導入したのが、1965年に登場したトヨペット・コロナ・ハードトップ。その後60年代末から70年代にかけて、軽から5ナンバーフルサイズまでの多くのモデルにハードトップはラインナップされた。
1964年のデビューと同時にセンセーションを巻き起こしたフォード・マスタングに始まるスペシャルティカーというカテゴリーに手をつけたのも、日本ではトヨタが最初だった。70年に登場した初代トヨタ・セリカは、平凡なセダンのプラットフォームに独自のスタイリッシュなボディを着せるという成り立ちから、豊富なオプションによってユーザー好みのクルマを仕立てるという売り方までマスタングに倣っていたのだ。
ハードウェアとしてのクルマのみならず、販売方法というソフトウェアもアメリカを参考にしていたわけである。ソフトウェアと言えば、クルマを中心にしたアメリカンなライフスタイルやレジャーも、セリカが登場した1970年ごろから広まっていった。
クルマがファッションの小道具になったフィフティーズ
若者文化とクルマは1960年代から密接な関係にあったが、実際のところ、マイカーを持てる人間の数はまだ限られていた。本当の意味で普及が進んだのは、70年代以降のことである。例えば70年代後半から80年代にかけて、若者の間でサーフィンが流行った。サーフィンそのものはそれ以前から伝わっていたが、ビーチから離れた地域からもクルマにボードを積んでいけるようになったからこそ、ブームになったのである。 今では全国どこでも見られる、アメリカンスタイルのドライブインやダイナーをルーツとするファミリーレストラン、ドライブスルーを備えたファーストフードショップの誕生も70年代。クルマ社会ならではのエンターテイメント施設であるドライビングシアターも80年代初頭にお目見えした。
つまりクルマの普及に伴い、10年から30年くらい遅れてアメリカのライフスタイルに追随していったわけだが、タイムラグと言えば、ひとつおもしろい現象がある。
1973年に製作されたジョージ・ルーカス監督の『アメリカン・グラフィティ』。舞台は62年の夏、サンフランシスコ郊外の街におけるティーンエイジャーの一夜を描いた青春映画である。
日本では翌74年に公開されたのだが、全編にちりばめられたリーゼントとポニーテールに代表される当時のファッションとビートルズ以前のロックンロールが、一部の若者に熱烈に支持されたのだ。そして、そうしたスタイルが「フィフティーズ」と呼ばれるひとつのカテゴリーとして定着し、今日まで続いているのである。
フィフティーズのライフスタイルにクルマは欠かせないが、ホンモノのクラシックなアメリカ車には手が届かない。そこで彼らが"代用アメ車"として目を付けたのが、前述したようなアメリカ車の影響を受けたスタイリングを持つ5ナンバーフルサイズの中古だった。
クルマからすれば、すでに数人のオーナーに仕え、後は静かに余生を過ごそうと思っていたところを、いきなりピンクやペパーミントグリーンの派手な服を着せられ、若者のお供をすることになって、さぞかし面食らったに違いない。しかし冷静に考えると、これは日本においてクルマが若者のファッションと結びついた遊び道具となった、最初の例かもしれないのだ。
一世紀にわたるモータリゼーションの先導役
約3年前に世界一の自動車メーカーだったGMが経営破綻したことが象徴するように、アメリカの自動車産業の衰退は隠せず、アメリカ車から輝きや勢いが失われて久しい。現代の日本車にアメリカ車の影響を感じさせるモデルが見当たらないのも、当然と言えば当然であろう。
とは言うものの、アメリカが世界一の自動車市場であることに変わりはない。高級車やスポーツカーを中心に北米市場を主眼に開発されたモデルは少なくなく、そもそもアメリカ市場の存在なくしては成立し得ない自動車メーカーは国産メーカーに限らず少なくないのだ。かつてのように直接的ではないものの、アメリカ車及びアメリカのクルマ社会の影響は今なお存在しているのである。また、アメリカにはEVメーカーのテスラモーターズのようなベンチャー企業が頭角を現わす素地も残されており、アメリカ発の自動車技術やトレンドが再び世界を席巻する可能性がないとは言えないのだ。
T型フォードの時代から数えて一世紀にわたるモータリゼーションの歴史を持つ自動車大国を、決して見くびることはできないのである。
沼田 亨(ぬまた とおる) 1958年、東京生まれ。楽器メーカー、オーディオメーカー勤務を経て、フリーランスのライターに。クルマを中心に音楽、映画、テレビ、ファッションなど昭和の時代風俗・大衆文化に独自のこだわりを持つ。「CAR GRAPHIC」(カーグラフィック)、「web CG」(日経デジタルコンテンツ)、「Old-timer」(八重洲出版)などに自動車関連記事を寄稿。著書に「新聞広告でたどる60〜70年代の日本車」(三樹書房)。 |
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